えとらんぜ

えとらんぜVOL.4『通勤ラッシュ追憶』

えとらんぜ
この間テレビを見ていたら、電車の通勤ラッシュの映像が出ていた。夥しい数の人間が狭い車内に押し込まれてゆく。それまでは互いに適度な間隔を保っていた見ず知らずの人同士が、ぴったりと密着し合うあの妙な感覚。密着しているのに、会話のない車内。
 朝の早い勤めではないので、通勤ラッシュとはとうに縁が切れていた私も、高校時代は、あの光景の中にいた。当時は毎朝、中央線の東京行きの最後尾の車両に乗るのが習慣で、友人と一緒に中野まで通学していた。
 毎朝その車両に乗り合わせる顔ぶれはほぼ同じ。毎日顔を合わせていて、お互いの立つポジションも決まっており、阿吽の呼吸で定位置に納まるのだが、会話をすることはほとんどなかった。しかしあれから十年以上経った今でも、記憶に残っている人が何人かいる。
 一人は私立小学校に通う少年。背の高い大人の狭間で、毎日苦しそうだったけど、彼の横にいると、ランドセルのおcかげで少し空間が出来、心なしか楽になったように思えたものだ。  
 その少年がある日、下車しようとした時のこと。
 「降ろして~」と言いながら、少年は開いている窓に手を伸ばしているではないか。窓からでもいいから降りようとしているのだ。窓はマズいだろうと、周囲にいた人達でなんとか降ろしてやったところ、ランドセルが脱げて本人だけがホームに降りてしまった。私たちは慌てて、ランドセルを窓から放り投げて事なきを得たのだったが、車内アナウンスでキツく叱られてしまった。何しろ、その車内の混み様といったら、持っている手提げバッグを手から離しても下に落ちないほど。ある時など、中野で降りたくてもなかなか降りられず、押し合いの末、なんとかホームに出た私たちはクツを履いていなかった。結った髪はほどけ、まるで落ち武者である。結局、東京駅まで行ってしまったクツは、車掌さんに拾われて中野まで戻って来た。ケンケンしながら近寄る私たちに、
 「おまたせ~」
 陽気な車掌さんだった。
 忘れられないもう一組は、毎朝私たちと一緒になる、トレンチコートのサラリーマンと、その先の駅から乗ってくる女。おそらく恋人同士だったと思う。彼らのことを、友人と私は『トレンチとその女』と名付けていた。
 ある日、いつも女が乗車してくる駅のホームに、彼女の姿がなかったことがある。彼女が乗ってこない日もそれまで幾度かあったのだが、その日はいつもとはちょっと違う事情があるようだった。トレンチが閉まりそうになるドアから急に降りたのである。走り去る電車の窓から、降りたトレンチの様子をじっと見ていた私たち。公衆電話からどこかに電話をかけている。
 「彼女、病気かな」
 「いや違うね」
 「なんで」
 「昨日から変だったよあの二人」
 「どこが」
 「女が乗り込む時に、トレンチと目を合わせなかった」
 友人がいうには、彼女が今日乗ってこなかったのは、二人の仲はもう終ったということらしい。
 「彼女、この電車乗ってるよ、たぶん」
 しばらくして私たちは、同じ車両に、涼しい顔をした彼女を発見したのだった。当然、慌てたトレンチの事も見ていたに違いない。哀れトレンチ。
 なるほど、恋とはこのように終るものなのかと、私たちは頷きあうのだった。
 今でも、あの通勤ラッシュの車内という場所では、小さなドラマが垣間見られるのだろうか。 


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